このコラムは傍楽通信2015年1月号の記事をリライトしたものです
正月とお節料理の定番食材
みなさん、正月はどのようにお過ごしでしょうか。正月と言えばお節料理。皆さんのご家庭ではどんな料理が並びますか。定番の食材としてカズノコ、ニシン、昆布、新巻鮭などがありますね。これらの料理がお節料理に使われるようになった背景には、近江商人の活躍があったことをご存じでしょうか。
近江商人と松前藩の出会い
江戸時代、一部の近江商人は松前藩――現在の北海道松前郡松前町を中心とした道南地域――へ渡りました。当時の北海道では米が採れず、日用品を含め多くを内地から調達する必要がありました。その物流を担い、藩からも重要視されたのが近江商人だったのです。
漁場経営と商人の役割
北海道に渡った近江商人たちは、単に海産物を内地へ運ぶだけではありませんでした。米が採れなかったため、松前藩では家臣への俸給を米ではなく海産物で支給していました。
武士にとって漁業経営は不慣れだったため、漁場を商人に貸し与え、その賃料を俸給に充てる仕組みが採用されます。近江商人たちは自ら資金を投じ、漁場の開拓や漁法の改良を積極的に行い、現地漁業の発展に大きく寄与しました。
ニシンとカズノコの価値と語源
こうして多くの海の幸が内地へ安定供給されるようになり、なかでも代表的なのがニシンです。ニシンには「鰊」と「鯡」という二種の漢字がありますが、松前藩では「鯡」を用い、「ニシンは魚に非ず」――米と同等の価値を持つという意味が込められていました。
ニシンは納税や俸給の代替として用いられるほど価値が高く、食料・商品としても重要でした。また、ニシンの卵巣がカズノコです。アイヌ語でニシンを「カド」と呼び、その子を意味する「カドノコ」が転じて「カズノコ」になったとされています。
日本海航路が運んだ食と文化
当時の輸送手段は船でした。北海道を出た船は日本海沿岸の港々に寄港しながら福井で荷を下ろし、そこから陸路または琵琶湖水運で京都・大阪へ運ばれました。後には山口県を回り、瀬戸内海経由で大阪へ直接届ける航路も開かれます。
この長旅は物資だけでなく文化も運び、北海道の民謡が日本海沿岸の町に広まったり、京都の文化が北海道に残ったりと、多面的な交流が生まれました。
北へ向かった近江商人の志
当時、隣村でさえ「外国」と言われる時代に、未熟な船で危険を冒し北の大地へ渡った近江商人たち。もちろん、内地にない物を持ち帰り大きな利益を得ようという思いはあったでしょう。しかし北海道の漁業振興や内地の食文化への影響、さらには文化交流という功績を見ると、彼らにはそれ以上の高い視座と挑戦心があったのではないか――そう思わずにはいられません。