昇進?いや、今のままでいいです。

ある企業で、期待の若手社員に課長昇格を打診したときの返答です。理由を聞けば、「残業代がつかなくなるなら、実質的に損じゃないですか?」とのこと。実際に計算してみると、一般社員として残業代を含めた給与のほうが、昇格後の手取りより多いという逆転現象が起きていました。

このようなケースは中小企業において頻繁に見られます。特に中小企業では、評価制度が曖昧なまま、管理職の定義や報酬体系が整備されていないことが多く、「昇進=報われる」という当然の構図が崩れてしまっているのです。

本コラムでは、「役職者と一般職の給与の逆転現象」を出発点に、制度的な問題の背景を紐解きつつ、企業としてどのような評価制度の見直しや処遇設計が必要なのかを考えていきます。

逆転現象がもたらす組織の歪み

課長などの役職に昇進すれば、責任が増すのは当然です。しかし、「その分、給与が上がる」とは限らない──。これが中小企業でたびたび起きる“給与逆転現象”の実態です。

背景にあるのは、労働基準法上の「管理監督者」という考え方です。管理監督者に該当する場合、原則として残業代や休日手当は支払われません。しかし現実には、権限も裁量も限られた状態で管理職にされる「名ばかり管理職」が多く見られます。

この点については、以下のコラムで詳しく解説しています。

結果として起きるのが、「役職に就いたのに手取りが減る」という逆転現象です。一般社員として残業をこなしていた時より、役職手当がついた今の方が収入が少ない。本人からすれば「責任だけが増えて損をする」状態であり、昇進を避けるインセンティブが働いてしまいます。

このような構造は、組織にも悪影響を及ぼします。管理職のポストにやる気のある人材がつかず、現場のマネジメントが機能しにくくなります。評価や育成が滞れば、若手社員の成長も鈍化し、結果として全体の生産性や士気の低下につながる恐れもあります。

問題の根源は、人事制度の設計にあります。制度が時代や現場の実情に合っていないままでは、社員の意欲を削ぐだけでなく、組織全体の持続性すら危うくなります。

このような逆転現象がなぜ起きるのか、そしてなぜそれが放置されがちなのかを、もう少し深く掘り下げていきます。

管理職に上がることが損になってしまう理由

「頑張って昇進しても、報われないなら意味がない」

このような声が現場から上がるとき、単なる不満や甘えと片付けてしまうのは簡単です。しかし、その背景には組織の制度設計上の構造的な欠陥があることが少なくありません。

まず、多くの中小企業では、管理職に求める役割が曖昧なまま、昇進が行われているという問題があります。課長に昇格しても、目標管理や人材育成といった本来のマネジメント業務など、役職者としての役割を明確に提示されず、これまでと業務内容がほとんど変わらない単なるプレイヤー業務の延長線上で「リーダーシップを発揮してほしい」と言われるだけ。この状態では、責任だけが増し、裁量も評価基準も不明確です。

一方で、一般社員は残業代や各種手当で給与が上積みされ、数字上の給与水準が管理職と逆転するケースも珍しくありません。このような状況下で、「昇進した方が損をする」と感じるのは、むしろ合理的な判断といえるでしょう。

さらに、こうした構造を放置すると、組織に以下のような悪循環が生まれます。

  • 優秀な人材ほど昇進を断る
  • 「やる気がある人」が管理職にならず、「断りきれなかった人」が任命される
  • 現場のマネジメント力が低下し、部下が育たない
  • 若手にとっても「上に行きたくない組織」になる

つまり、損をする管理職の存在は、一人のキャリアの問題ではなく、組織の将来に直結する経営課題なのです。

また、この問題が根深いのは、「給与テーブルの見直し」や「手当の増額」といった表面的な対処では解決できない点にあります。本質的には、「管理職とは何をする人なのか」「その役割にふさわしい報酬とは何か」という根本の問いに向き合い、制度そのものを設計し直す必要があります。

では、この課題をどう解決に導いていくか、評価制度・報酬制度の再設計の具体的な視点について整理しましょう。

解決に向けた3つの視点

逆転現象を放置せず、昇進が「損ではなく、挑戦のチャンス」となる組織に変えていくには、評価制度や処遇の見直しが不可欠です。ここでは、特に中小企業でも実行可能な3つの視点をご紹介します。

1.役割と等級の整理:プレイヤーとマネージャーを分けて考える

まず重要なのは、役割と報酬の関係性を再構築することです。多くの中小企業では、年功や勤続によって自然に昇格し、役職がつくという構造になっています。しかし、これではプレイヤーとマネージャーの線引きが曖昧になり、現場も本人も混乱します。

そこで、たとえば等級制度を導入し、

  • プレイヤーとして高い専門性や成果を発揮する社員には「上位等級の一般職」として報いる
  • マネジメント業務を担う社員には「管理職等級」として評価基準と処遇を設計する

といったように、役割に応じた評価軸を分けることで、報酬と役割の整合性を確保することができます。

2.評価と報酬の「納得性」を高める仕組みづくり

「なぜ自分はこの評価なのか」「この手当は何を根拠に支払われているのか」が不透明だと、不満は溜まるばかりです。重要なのは、制度そのものの公正さと、説明の納得感です。

たとえば、

  • 管理職に対しては、役職手当や職責給で残業代分を上回る処遇を設計する
  • 評価制度に自己目標管理(MBOS)や行動評価の要素を取り入れ、評価基準を明文化する
  • 昇進・昇格時には、本人との面談を通じて評価理由や期待役割を丁寧に説明する

といった対応が考えられます。

給与の金額そのものよりも、「どうしてその金額なのか」を社員が理解できるかどうかが、制度の納得感に直結します。

3.マネジメント以外のキャリアパスを用意する

すべての社員がマネジメントに向いているわけではありません。それにもかかわらず、「出世=管理職」という一本道しかない組織では、管理職になりたくない社員がキャリアを閉ざされることになります。

そこで、「専門職コース」や「プロジェクト型リーダー」など、マネジメントに依存しないキャリアの道を明示することが有効です。そうすることで、

  • マネジメント適性がある人は昇進を目指しやすく
  • 現場で力を発揮したい人も、モチベーション高く働き続けられる
  • という、多様性を活かした組織運営が実現できます。

それでは、こうした制度見直しを実行に移す際に注意すべき点はなんでしょうか。

人事評価制度導入・改定時の注意点

人事評価制度や報酬体系の見直しは、社員のモチベーションや組織文化に大きな影響を与える取り組みです。制度の正しさや理想だけでは乗り越えられない現場の壁もあるため、導入・改定にあたっては慎重な対応が求められます。以下、制度改革を成功させるための3つの注意点を挙げます。

1.「いきなり全社導入」ではなく、まずは試験運用から

新たな制度はすぐに本運用をせず、まずは試験運用を行ないましょう。その際、まずは一部部署・一部職種から試験的に導入することも有効です。

試験運用のメリットは以下の通りです。

  • 現場での運用のズレや問題点を事前に洗い出せる
  • 社員の反応や疑問点を収集できる
  • 小さな成功事例をつくり、他部署への波及を促せる

特に中小企業では、「制度は作ったが使われない」「内容は立派でも定着しない」というケースが多く見られます。現場の温度感や実態を踏まえ、現実に沿った設計・運用の調整プロセスを持つことが鍵になります。

2.既存社員とのバランスに配慮する

新制度の導入に際しては、既存の処遇や評価とどう整合させるかが重要な論点です。

  • 「今まで昇進した人たちには残業代が出なかったのに、これからは出るのか?」
  • 「評価基準が変わったことで、以前より評価されにくくなるのでは?」

このような声が上がるのは自然なことであり、制度改定には過渡期の混乱がつきものです。

そのため、たとえば以下のような手当てが有効です:

  • 経過措置や特例ルールを一定期間設ける
  • 過去の評価と新制度の橋渡しになるガイドラインを作る
  • ベテラン社員や既存管理職に対し、制度変更の背景を丁寧に説明する場を設ける

制度を押しつけるのではなく、共に作り上げていく姿勢が大切です。

3.制度は「作って終わり」ではない

どれだけ綿密に制度を設計しても、実際に運用してみなければ見えない課題が必ず出てきます。評価基準が不明確、運用が属人的になる、フィードバックが機能しない――こうした状況を放置すれば、新制度も旧制度と同じように形骸化してしまいます。

したがって、制度導入後も以下のような対応が不可欠です。

  • 半年〜1年ごとの運用レビューと改善
  • 管理職への評価者研修の実施
  • 社員へのフィードバック制度の整備
  • 「制度に関する意見」を受け付ける相談窓口の設置

人事制度は「制度運用そのものが組織文化をつくる」道具です。運用を通じて見えてくる課題を、次の改善サイクルにつなげていく柔軟さが、制度定着のカギを握ります。

まとめ

昇進によって責任だけが増し、給与が下がる。そんな逆転現象が起きている組織では、社員の成長意欲や挑戦心は育ちにくくなります。
さらにその状態が続けば、マネジメント人材が育たず、部下も育たず、組織全体の生産性や士気の低下を招くことになります。

こうした問題を個人の意識のせいにするのは簡単です。ですが本質的には、人事制度が、社員にとって「頑張るほど報われる」仕組みになっているかどうかが問われているのです。

中小企業にとって、人材は最も大切な経営資源です。そしてその人材が、将来に希望を持ち、長く活躍できる環境を整えることは、単なる制度設計の問題ではなく、経営の本質的なテーマでもあります。

本コラムでご紹介したように、制度の見直しは決して大がかりである必要はありません。

役割や等級の整理、報酬設計の見直し、キャリアの多様化など、できることから一歩ずつ始めることが重要です。むしろ、全体を一気に変えようとするよりも、現場に寄り添い、運用を重ねながら制度を育てていくという姿勢が、長期的な定着と効果を生み出します。

「制度が社員を動かし、社員が組織を動かす」

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